話し手は同時に聞き手であり、
聞き手は同時に話し手である
奏者は自らの演奏を聞いているし、聞き手も独自の理解で奏でている
パロール的なもの(言葉、音楽、舞踏、映像…)
記録媒体を伴わない記号
発信者から受信者にダイレクトに伝わる何かだ
その場の空気や光や回線等を介して伝わるものだ
ライブ演奏などの音楽も同じことではないだろうか
電話やテレビなどを介していても同じだろう
人間の感覚の範疇でほぼ同時であること
なかでも言葉においては主従関係が強い
なかでも音楽などの場合は共振要素が強い
エクリチュール的なもの(言葉、音楽、舞踏、映像…)
記録媒体を伴う記号
発信者と受信者は切り離されている
書き手は譜面を残す
読み手はそれを奏でる
楽譜はすでに書き手から離れている
奏でるときは、読み手という主体だけになる
演奏だけではなく、考古学的な発掘(分析)作業もできるだろう
オルゴールも、MIDIも、映画も、メモ紙も、脳内記憶も同じ
奏でることと感じることは同じだ
小説の登場人物に声を与えるのは読み手だ
台本や譜面は文字どおり奏でることができ新たな受信者へも開かれている
曲、映像などの時間芸術は受信するだけのように見えるが、そこから何を読みとるかは受信者次第であり、解釈は創造なのだと思う
時間的ズレがあるだけ
記録媒体を介してるだけ
ズレが記録媒体であり…
お金に似てる一面もあるかもしれない…
物々交換ではなく、お金を介しての交換
ダイレクトではないけど、その分自由度が増した
電話ではなくメール…それぞれの時間で…
今というダイレクト性
記録媒体の技術革新はパロール的なものとエクリチュール的なものの境界を曖昧にしている
テレビ中継は、表示がなければそれが録画なのかライブなのか分からない…すでに混乱は始まっている
録音や録画はある意味「今」を残す作業だろう
バーチャルが進めばより臨場感を伴って再現できるようになるはず
記号の純度
音声言語は文字言語に対して優位らしい
確かにエクリチュールは写しにすぎないのかもしれない
まだ書けない子供も話す
しかしパロールは表情や仕草や音の反射や誰が聞き手であるかなどの侵食を受けていて、言葉だけを抽出することができず、もはや言葉とはいえない別の形態をした表現になってはいないか…
パロールは言葉としての純度に劣る…逆にエクリチュールのほうが高い
確かに楽譜よりも演奏なのだけど、純度という点において、同時性は他の要素を取り込み別ものにしてしまう…